ラノベの本懐とは:木村航『ぺとぺとさん』に寄せて [ライトノベル]
私にとって木村航は『ぴよぴよキングダム』の作者である。
その『ぴよぴよ』で印象的だったのは、ヒロインあかりの抜群に凛々しい佇まいだ。
いつもキリキリとんがってて、誰にも媚びない
哀れまれるのが大嫌いで、自分の道を切り開くのは自分だ、と心に銘を刻んでいる
クラクラするほど魅力的だった。
『ぺとぺとさん』でかっこいいのは「妖怪れろれろ」こと赤沢だ。
生きるために戦う。
痛々しく、でもとても清々しい。
しかーし、この赤沢は端役も端役なのだ。
今後の展開に含みを持たせつつも、今のところちいさなエピソードに過ぎない。
そして残りの登場人物は、ほとんど「他人の善意に無防備に賭けてしまえる人たち」である。
それが悪い、と言っているのではない。
というか、そういうファンタジーは別に嫌いではない。
むしろ残酷さを露骨に差し出すことで、「現実」をわかったような顔をしている連中のほうがよっぽど嫌だ。
しかし、問題はそのファンタジーがファンタジーとして機能しているか、ということである。
そして、どうも私にはそれがうまくいっていないように思えるのだ。
いや、うまいのである。
面白く読める。面白かった。
「萌え要素」のちりばめ具合も、まあちょっとあざといかな、と思う部分はあれど、堂に入ったものである。
(個人的にはぬりちゃんがいい)
しかし、「うまい」と思われるのは、やっぱりうまくないのである。
私には、作者があんまり書きたくないものを、その技量ゆえに見事にこなしてしまった、という印象を受けるのだ。
だから「いい」より先に「うまいなあ」と感じてしまうのである。
まあ、はっきり言おう。
この作品は「ウケ」を狙って書かれている。
そのこと自体は当たり前だ。職業作家で「ウケ」を狙わない人はいまい。
ただ、それはおそらく作者にとって、ややラインを超えたものだったのではないか。
おそらく、作者は誠実すぎるのだと思う。
狙いに対して誠実である。だから、ちゃんと「よくできたもの」を書いた。
自分に対して誠実である。だから、自分を騙しきることができない。「甘いファンタジー」に開き直れない。
赤沢がその象徴だが、妖怪と人間の摩擦(それは差別という現実の社会問題にリンクする)をテーマとして掲げてしまう。
掲げておきながら、それを十分に主題化できず、最後は個人と個人の間の心の問題に行ってしまう。
私が『ドルイドさん』のような作品が好きなのは、作者が本当に好きで書いてるのがわかるからだ。
自ら描き出す世界を、登場人物たちを、心から慈しんでいるのがわかるからだ。
そして、それこそが私がライトノベルの一番美しいと思う部分なのだ。
そこにはしばしば厚顔な「文学」「芸術」が取りこぼしてきたものがある。
作者はこの作品をまだ十分に愛し切れていない。
ライトノベルとして、これは看過できない傷である。
とはいえ、私の見るところ、作者ははじめからこの作品を「小手試し」と考えているフシがある。
続編を書ける位に好評を得られる自信があるのだ。腕があるから。
あえて、無理にチャレンジして、今後じっくり回収しようと言う感じ。
実際、このあとには続編が続いている。
「おお、こう来たか。いや参りました!」ということになることを期待して読むつもり。
木村航はまだまだこんなものではないぞ、と言いたいのだ。
その『ぴよぴよ』で印象的だったのは、ヒロインあかりの抜群に凛々しい佇まいだ。
いつもキリキリとんがってて、誰にも媚びない
哀れまれるのが大嫌いで、自分の道を切り開くのは自分だ、と心に銘を刻んでいる
クラクラするほど魅力的だった。
『ぺとぺとさん』でかっこいいのは「妖怪れろれろ」こと赤沢だ。
「戦うためです」// 掘り当てた虫をバケツに入れながら、赤沢は答える。// 「生きていくには食べていかなくちゃいけません。そうじゃない特定種族もいますけど、私たちは違います。そもそも…」口を歪めた。「れろれろは、いまのところ特定種族でさえないんですからね」// むろん明日香は知っていた。かける言葉も見つけられなかった。// 「戦わないと生きていけません」赤沢が言った。「保護を受けられないなら味方を作るしかないし、正当な要求を突きつけて、間違ったことや理屈に合わない点は変えていかなければならない。先生、私が学校に通うのは、人脈を、味方を作るためです」
「先生」赤沢が言った。「私たちの味方になってくださいませんか」
生きるために戦う。
痛々しく、でもとても清々しい。
しかーし、この赤沢は端役も端役なのだ。
今後の展開に含みを持たせつつも、今のところちいさなエピソードに過ぎない。
そして残りの登場人物は、ほとんど「他人の善意に無防備に賭けてしまえる人たち」である。
それが悪い、と言っているのではない。
というか、そういうファンタジーは別に嫌いではない。
むしろ残酷さを露骨に差し出すことで、「現実」をわかったような顔をしている連中のほうがよっぽど嫌だ。
しかし、問題はそのファンタジーがファンタジーとして機能しているか、ということである。
そして、どうも私にはそれがうまくいっていないように思えるのだ。
いや、うまいのである。
面白く読める。面白かった。
「萌え要素」のちりばめ具合も、まあちょっとあざといかな、と思う部分はあれど、堂に入ったものである。
(個人的にはぬりちゃんがいい)
しかし、「うまい」と思われるのは、やっぱりうまくないのである。
私には、作者があんまり書きたくないものを、その技量ゆえに見事にこなしてしまった、という印象を受けるのだ。
だから「いい」より先に「うまいなあ」と感じてしまうのである。
まあ、はっきり言おう。
この作品は「ウケ」を狙って書かれている。
そのこと自体は当たり前だ。職業作家で「ウケ」を狙わない人はいまい。
ただ、それはおそらく作者にとって、ややラインを超えたものだったのではないか。
おそらく、作者は誠実すぎるのだと思う。
狙いに対して誠実である。だから、ちゃんと「よくできたもの」を書いた。
自分に対して誠実である。だから、自分を騙しきることができない。「甘いファンタジー」に開き直れない。
赤沢がその象徴だが、妖怪と人間の摩擦(それは差別という現実の社会問題にリンクする)をテーマとして掲げてしまう。
掲げておきながら、それを十分に主題化できず、最後は個人と個人の間の心の問題に行ってしまう。
私が『ドルイドさん』のような作品が好きなのは、作者が本当に好きで書いてるのがわかるからだ。
自ら描き出す世界を、登場人物たちを、心から慈しんでいるのがわかるからだ。
そして、それこそが私がライトノベルの一番美しいと思う部分なのだ。
そこにはしばしば厚顔な「文学」「芸術」が取りこぼしてきたものがある。
作者はこの作品をまだ十分に愛し切れていない。
ライトノベルとして、これは看過できない傷である。
とはいえ、私の見るところ、作者ははじめからこの作品を「小手試し」と考えているフシがある。
続編を書ける位に好評を得られる自信があるのだ。腕があるから。
あえて、無理にチャレンジして、今後じっくり回収しようと言う感じ。
実際、このあとには続編が続いている。
「おお、こう来たか。いや参りました!」ということになることを期待して読むつもり。
木村航はまだまだこんなものではないぞ、と言いたいのだ。
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