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<「ヱヴァ」をめぐって - あれから14年> 見てきた! [雑記]

高い金出して行ってきました、朝日カルチャー。
結果的には、大いに満足、です。
当初は、

明らかにやる気なさげな東さん
マイペースの竹熊さん
仕切りにくそうな伊藤さん

が噛み合わず、どうなることかという感じでしたが、

「面白くない。金返せって感じ」

という客席(西島大介さん)からのゲキが効いたかヒートアップ。
21時にエアコンが切れたあたりからは激アツの展開。
東さんの言う

「傑作であるにもかかわらず、語る意味が見いだせない」

という発言の意味が大方の胸に落ち、Qのトンデモ展開を披露し合って、見事に締りました。

印象としては、やはりこの組み合わせはよかったんだな、ということ。
簡単に話が合ってしまう者同士だと、盛り上がってそれだけ、になりがちです。
しかし、竹熊さんがマイペースで話を進める。
東さんが相変わらずのクリアカットぶりで一気に結論を出してしまう。
伊藤さんが、違う筋のコメントを入れることで、かえって東さんの理路が見えてくる。
そうして、お金を払った価値のある見物となりました。

ただ、東さんの言う「物語としては凡庸」というのはちょっと語弊があると思う。
言いたいことはわかるのですが、問題はむしろ、現代では

「物語として筋を通そうとすればするほど凡庸に見えてしまう」

ということではないでしょうか。

物語の飽和した現代においては、「破綻のない物語=可能な物語の一展開」となってしまう。
初形の段階で二次創作と同一平面に置かれてしまう。
今後、新劇場版が破綻なく進行すれば、それはどうしても物語としては二次創作と質的に変わらないものとなるでしょう。
単線の物語において凡庸を回避することはほとんど不可能に見える。
「物語として凡庸」は表現として冗長、ということになる。それは当たり前だから。

竜騎士はひぐらしの「祭囃し編」において、トゥルーエンドをあからさまなファンタジーとして描き、
「賽殺し編」において、トゥルーエンドとは「他の世界を殺すこと」だと暗示しました。

ある物語が「唯一のもの」と信じられた牧歌的な時代(竹熊さんの言う「エヴァ以前」の時代)は、たぶん終わってしまいました。

物語が「可能な解のひとつ」と見なされる時代において、「物語として凡庸」という言い回しはもはや何も意味しないと思うのです。
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